水たまりノート

- The Puddle Note -

Twitterとブログと生きづらさ

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「私はコミュ障だから…」というように、コミュニケーション能力は個人の問題のように思われがちだ。

けれどちょいちょい文章を読んでいると、そうでもないらしい。

関係性の問題

現代思想の8月号『「自己」が生まれる場』(貴戸理恵にはこうある。

二者間の関係がうまくいっていないとき、その責任を「コミュニケーション能力がない」とされる一方に帰するのではなく、両者のあいだのディスコミュニケーションとして捉え、「相互に調整する」という選択肢を持つことである。

自分の考えを表現することが苦手な人というのはいる。

けれどもそれをその人だけの問題として捉えるのではなく、

「苦手な人の想いを汲み取る余裕がない受け手にも、もっと努力のしどころがあるよね」

ということなんだろうと思う。

「コミュ障なあなたが変わればいい」ではなく、「あなたも私も、お互い落としどころを見つけよう」と言っているように私には聞こえて、なかなか、最近の大きな発見だった。

「あなたが変わる」「私が変わる」でない第三の「お互い調整する」という視点。

相互調整の前に

ここにちょっと問題があるのは、相互調整するためにはコミュニケーションを取る双方が「自分の主張」を分かっていなければならないということだ。

貴戸氏は以下のように述べている。

まず必要なのは、「自分はこのような人間である」「自分はこのように生きたい」という自己の感覚を、自らの手に掴むことではないだろうか。

それが可能となってはじめて「こうしたい」と自己を主張することができ、異なるニーズを持つ相手と「相互に調整」することができるようになる。

つまり「自分とは何か」を自身が掴み取っている必要があるのだが、これができておらず、自己を語りえない「生きづらさ」を抱える人たちがいる。

今思えば、私が抱えてきた生きづらさもこの自分が掴めないことによるものだったのだろう。

私の場合

『「自己」が生まれる場』では「生きづらさ」を抱える人たちについて、当事者研究会の事例を紹介しているのだが、私の場合はTwitterとブログがこれに当たると思う。

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躁うつ病クラスタでの活動

今は放置しているのだけれど、私はこのブログとは別にもう一つ自分の持病に関する「躁うつ病ブログ」を開設している。

躁うつ病ブログを始めたのは2015年のこと。

Twitterも同じくらいの頃に病気専用アカウントを作ったと思う。

仕事を辞めて専業主婦になり強制的な人との交流がなくなったので、自分で何かしら社会とのつながりがあればと思い始めた。

ツイートする

Twitterでは「躁うつクラスタ」の人を主にフォローし、彼らも私が同じ病気だとわかるとフォローし返してくれた。

Twitterでは本当に他愛もないことをつぶやいた。

何もできなかった一日のこと、世間に対する文句、気分の波……。

とても人に誇れるような内容ではなかった。

けれどフォロワーさんたちはそんなつぶやきにも「いいね」を押してくれた。

無言のエールなのがなんとなくわかった。

いいねする

私もフォロワーさんたちがうつで苦しんでいるとき、希死念慮と戦っているとき、小さな一歩を踏み出したとき、躁を抑えてベッドにこもっているのがわかるとき、同じように「いいね」を押した。

ときに、必ずしもいい内容ばかりではなかった。

発病の原因となった人に対する恨みつらみがにじみ出てきている人もいたし、社会における精神障害者に対する知識のなさが問題提起されることもあった。

それでも私たちはゆるく、穏やかに繋がっていて、嵐が過ぎ去ればまた何事もなかったかのように互いの生活を見守った。

傷を舐め合うのとは違う、寛容さがあった。

ブログを書く

そういう中に基本的に身を置いて、まとまった文章としてブログをちょこちょこ書いた。

過去を振り返るうちに、周りの人との関係性や自分の居場所、恨みとの付き合い方が整理されてきた。

私の持った生きづらさは「自分の醜い感情との向き合い方」ということなのではないかと何となく思うようになった。

学生時代から「完璧でないと私には価値がない」と思っていた。

その延長線上に「完璧な人は他者を憎まない」「病気の原因となった人たちのことを憎んではいけない」という課題があった。

この課題と「それでも人が憎い」という自然と湧き上がる感情とのギャップが生きづらさを生んでいた。

けれど、Twitterで繋がった人たちやブログにコメントをくれた人たちは完璧な私でなくても受け入れてくれた。

ここまでの流れ

貴戸氏の文章では当事者研究会で起きた、「生きづらさ」が解消される過程をこう説明している。

1)具体的な仲間との関係性をつくり、

2)関係性を通じて自己を見出し、

3)自己のニーズに基づいて社会とのつながりを取り戻している

Twitterやブログで起きた私の体験もこれに当てはまるのではないかと思う。

Twitterやブログという場で同じ病気を抱える人たちとの関係をつくり、つぶやいたり記事を書いたりする中で自分の生きづらさの根っこにあるものが見えてきた。

Twitterのメリット

本当は悩んでいるならハナから躁うつ病患者会に参加しても良かったのかもしれない。

そういう団体もあるにはある。

けれど地理的に集まりに参加することが難しかったし、何より私には精神的に敷居が高かった。

その点でTwitterはいつでもどこでもアクセスできたし、患者さんたちのツイートをコッソリ観察もでき、輪に入るときも「躁うつ病」のタグをあてにフォローしていけばいいので容易だった。

他にTwitterやブログのメリットとしては次のようなものがあると思う。

緩やかな繋がり

「輪に入る」と言ったがその輪というのも緩やかな繋がりであり、何かの会員証や資格が必要なわけではない。

いざ誰かと揉めたとしてもそれはその人との1対1の問題であり、組織や集団からの追放を意味するわけではない。

そんな繋がりの中でなら自分の意見も言い易かった。

意見を頭ごなしに否定されない

Twitterに限ってだが、意見は基本的に否定されなかった

同意するとき・応援するときは「いいね」が付くが、あまりに考えが合わない人はフォローしないとかミュートするという選択肢があるのでそれを活用していた。

ツイートが目に留まるときは「そういう考えもあるよね」程度に思った。

皆そもそも病気の自分のことで手いっぱいで、人の意見にわざわざ噛みつこうという元気もなかったのかもしれない。

でもこれは幸いした。

自分語りを突然始めても笑う人がいないので、それぞれに自分自身と向き合う場を設けることができた。

ラッキーなときはその自分語りのつぶやきに共感した人がアドバイスをくれることもあった。

文字にすること

考えがぐるぐると駆け巡って混乱したときは文字にして吐き出した。

ブログとして、人にわかるように説明することを前提に書き出したのが良かった。

自分でもわからなかったことが言葉にする中でクリアに見えるようになったし、後で見返すこともできた。

まとめ

コミュニケーションはそれを行う相互の問題だが、まず自己を語ることができなければ「生きづらさ」に繋がり、対話が成立するのは困難になるらしい。

「生きづらさ」をめぐる自助活動に「当事者研究」があるが、私の場合はTwitterやブログでの活動が自分の問題を解決していくのに役立った。

そこでの繋がりが緩やかであったこと、意見を頭ごなしに否定されなかったこと、文字にすることによる思考の整理ができたことが大きなメリットであった。

自分がどうあればよいのか、自分のしたいことが何なのかわからない人はTwitterやブログをきっかけにしてみるのも良いのではないかと思う。